漫画「F」のセリフについて少し考えてみようと思う。内容が一貫していないので、項目毎にテーマを決めて、段落分けしてみた。20年、30年後には、考え方も変わっているであろうが、今の時期の思想が人生のうちで、最も過激で面白いと思われるので読むに耐えるものになるであろうと思う。それでは………
『人生は芝居である。世界という劇場で、人間はそこに登場する俳優にすぎない。』
ある作家の言葉だが、これは容易に理解できるであろう。我々はそれぞれに与えられた役柄を演じるだけであり、主役も脇役も道化も悪人も、全て等しく価値のある存在である。つまり、世の中には、正しい生き方というものも、間違った生き方というものも存在し得ない。そんなものは、エゴイストの自己弁護にすぎない、というのである。これは、現代哲学の基礎を為す、大思想であると思う。
しかし、考えを突き詰めると、問題が発生する。人生が芝居ならば、その役柄の割振りは誰が行うのであろうか。また、芝居にはその全体を見渡せる観客という存在が不可欠である。役者には見えない全体を見て、芝居を鑑賞しうる存在が……。
僕達の思いつく範囲で唯一、その2つの任に当ることができるのは、「神」である。それでは、「神」が芝居を演出し(つまり人々に「運命」を与え)、且つそれを眺めている(つまり宇宙のあらゆる出来事を認識する)のであろうか。
サミュエル・ベケット著「ゴドーを待ちながら」では、人間がいくら待ってもとうとう神は現れなかった。我々人間は哀しくも、全体を見渡せる視点や存在を欠いた彷徨える浮浪者であり、我々が演じているのは観客のいない勝手な芝居であるという。「運命」とは、人間以外の絶対存在が人間に与えるのではなく、人間を含む全ての生命の相互の係わり合いによって自然発生するものであろう。安直な結論だが、科学に携わり、無神論者である僕には、それ以外は信じられない。
今、世界は急速に滅亡へ向かっている。このシナリオの結末は、どうなっているのであろうか。僕にはそれを知ることすら、恐ろしい……。
『人の出生は、体内にいる時の全能なる状態から、赤子という無能な状態へと変化することであり、その全能なる力を奪い取った犯人は、世界という空間である。故に人間は、空間に対して原始的な憎しみを抱きながら生育し、いつか自分を無能にした空間に対して復讐し、あの全能感を取り戻そうと考えている。』
漫画「F」の作者である六田登氏が、最終的には否定した言葉です。しかし、これは僕の実感です。僕は常々、地球という小さな枠の中で国家どうしが何故領土を奪い合って、国力を落としてさえも争うのか、納得できませんでした。領土が増えたからどうだというのでしょう。地球上の人類全てを消滅させられる核を生むにまで争いは大きくなりました。そこまでいくと領土など、経済的にも、社会的にも無意味です。何故、争うのでしょうか。何故、欲求が生まれるのでしょうか。
僕にはその答えの一端が、前述した言葉にあるとしか考えられません。人類はその誕生以来、山を征服し、海を征服し、領土を広げ、国を奪い合い、あるいは大きな家を建てて、権力を持ちたがり、名を知られることを喜び………より遠くへ、より速く、知りたがり、食べたがり………心理学的な立場から見ると、進歩とは空間に対する復讐に他なりません。
それは、人類の偉大な側面であり、同時にひどく愚かな側面でありましょう。
『人間にとって、もはや純粋な欲望は希少である。そう考えているものは、実はモデルの欲望の模倣にすぎない。』
私達にとって、純粋な欲望とはなんでしょうか。特定のモデルを想起したものでない、純粋な欲望とは。その存在は非常に希です。原始的欲求と異なり、我々の欲望には、ほとんどモデルが存在するのです。
例えば、政治家のうちでも「国を善くしよう」とだけ思っている人は皆無でしょう。「ケネディの様になりたい」とか「レーニンのように…」とか、自分が目指す既成のモデルがあるのです。F1ドライバーにも、ただ純粋に速く走りたいなどと思っている人はいないでしょう。尊敬する過去のドライバーをモデルにしています。
自分独自の純粋な欲望をもった人。そういう人こそ、英雄として世界史に名を残した偉大な人物でありましょう。
『自然に対して敵対的であれ友好的であれ、人間は自然と係わりながら自らを変えようとしてきた。その行為の蓄積こそが「文明」というものの正体である。』
ここでいう文明とは「人間がこれまで築いてきた社会の様式」である。
科学が人間に提供するものは、自然に関する知識である。人間は科学によって自然を知り、自然に対処してきた。そして、現代科学文明はその言葉からもわかるように、科学が文明の根底に根付いている。
ところで、主に日本人は自然と調和して生きてきた。個々の家に庭があったり、盆栽があったりと、常に自然を近くにおいてきた。それに対して、ヨーロッパの民族は、長く自然と敵対してきた。ヨーロッパの人達にとって、自然は「制していくべきもの」であった。文明にはその両面が同時に存在する。すなわち、自然が存在しなければ生きてゆけないので自然を友達としつつも、文明を発展させるために、またその度に自然を敵にまわす。それこそが「文明」の正体である。皆さんは、そんな文明をどう評価するだろうか。「悪」とする人もいるだろう。しかし、自然を否定することは勿論、文明も、それを否定することはできない。文明は、人間の行いの蓄積であり、人間の存在を後に伝えるものであり、いわば人間の存在そのものなのである。それを否定しては、人間に未来はないのだ。一部の自然主義者や環境主義者が浅薄なのは、その事がわかっていないからだ。
確かに愚かな文明というものはあるだろう。愚かな進歩というものも、またある。しかしそれは、自然との折り合いのつけ方が愚かであったということだ。
そこで考えてほしいのは、現在の文明である。現在の文明は、自然との折り合い方が正しいだろうか。僕にはそうは思われない。文明のための発展、繁栄を捨てられず、自然との調和の仕方を見つけられずにいる。更に悪いことに、その事に気付いているにもかかわらず、人間、特に国家は自ら乗り出そうとせず、楽観しているだけだ。
人間は、文明を生み育んだが、今や肥大化、システム化し、一人歩きしだした文明に愚かにも押し潰されようとしている。地球誕生から40憶年以上保たれてきた地球の気象の秩序が、ここ 100年程で崩れかかっているのを例にあげるまでもなく、人間は、地球のあらゆる秩序を破壊しつつある。人間は自らが今、何をしているのかわかっていない。
我々は現在、戦争もなく物も豊富で、何不自由無く生活している。世界の混乱を考えると、日本こそが今、率先して動くように選ばれた国なのではないだろうか。