Golden weekである。
昨日、母が「桜の花でも見に行こうか」と言った。その際、僕は「花見の桜は美しくない」と答えた。河川敷きなどに整然と並んでいる木々達は自然ではないと思った。
ずっと以前からそう感じている。小学生か中学生の頃、国語の授業で「桜の花のピンク色は、花びらだけでなく、幹や根もいっしょになって全体であの淡いピンクを生み出す」という話を聞いたときに、その生命力の存在を感じて、桜の花を美しいと思うようになった。小矢部川に沿って植えてあった桜を見ていたのだが、眺めながらその時考えた。美しく咲く桜の花の一つ一つはとても素晴らしいのに、桜の木々が並んでいるのを遠くから、例えば、橋の中間ぐらいから眺めても、全然感動できない。美しい桜だが、美しい風景とは感じられなかった。
川の両脇に、等間隔で整然と植えられ、かつその足元に見える土が最小限で、コンクリートとアスファルトに囲まれた並木に、僕は「人間」を見てしまったのである。それは確かに、人間が意図して植えたものであり、そうすることによって、川べりの風景は殺伐としたものではなくなった。しかし、やはりそこに「人間」を見てしまったことで、その並木を「自然」だとは考えられず美しさはなかった。わざわざ見るほどのもんじゃない、と思った。
自然に人間が手を加えることが悪いのではなく、自然であるはずのものを見て、そこに「自然」ではなく「人間」が見えてしまうことが問題なのだと思う。
もっと言えば、河川敷きの桜には生きようとする力、例えば、自分以外の桜と競い合おうとする力などが感じられなかった。山に入るとよくわかるんだが、そんなところに生えている草花は、日光や水分、栄養分を得るために、あたりの植物と必死に競い合っている、できる限り大きく根をはり、できる限り、体を伸ばして懸命に生きようとしている。つまり、生きている。
河川敷きの桜は、ただそこにいるだけの、意志を持たない人間のようだった。
欧米人は自然と対立して生きてきたと言われ、比して、日本人は自然と共存して生きてきたと言われる。欧米人に比べて、日本人は自然を、自分達の身近に置くことを好む、というのは、僕もそう考える。
外国人は日本庭園や、盆栽などを見て、そう感じるようだ。また、風景画なども、ヨーロッパでは港や町並みが多いが、日本では木々や山景がとても多い、というのを聞いたことがある。
そんな自然を愛する日本も、今や木材・パルプの一大消費国となり、世界の森林破壊に一役かっている。その事実は誰もが知っているはずなのに、その重大さに気付いている人はとても少ない。テレビや新聞などの報道を崇拝し、それが大きく取り上げることのみが重大事であり真実である、と信じて疑わない。報道を通じて、間接的に入ってくる情報に満足し、自分自身で物事を感じることをしない。というか、報道からの情報だけで、物事を理解し、判断し得ると考えている。
情報が非常に粗末に扱われている”高度情報化時代”のそんな弊害が影響を及ぼすのは、非常に広範囲である。そして、「自然」はその中の一つである。
自然を好む日本のこんな山奥ですら、美しい自然に出会うことが難しい時代になった。人がそういう時代にしてしまった。
この地球に人さえ生まれなければ、地球はもっと健全だったかもしれない。ならば、人はどうして生まれてきたのだろう。
また、自然が死ねば、人も生きていられない。自然はいつまで人間の虐待に耐えてくれるだろうか。もうすぐだろう。