「無関心という異教」という言葉が心に刺さった。
我が身を振り返ると、確かに"無関心"を崇拝しているフシがある。近所付き合いも、会社付き合いもできるだけ避けているし、他国の貧困問題どころか、国内の待機児童問題やヘイトスピーチなどにも全く関心が無い。自分の興味の範囲外ならスッパリ切り落とす生活を、ここ何年も続けている。
情報過多なんだよ、面倒くさいんだよ、とか自分に言い訳しているが、それだけではないような気もする。
最近、「この世界の片隅に」という漫画を読んだ。前半は戦時の生活がcomicalに描かれつつ、後半、終戦に向けて苛烈さが訴えかけてくる。昭和の戦争を知らない私にも、ある程度わかった気にさせるマンガだった。
しかし、私の心に最も残ったのは、戦争の悲しさでも現代平和の尊さでもなく、戦時に生きる人々の互助的な繋がり、隣人や他人を思いやる心と行動だった。どんなに厳しい状況にあっても、誰かを助けようとする、気遣おうとする。そこかしこに描かれていた。
こういう気持ちや行動は、今の自分には見る影もない。隣人さえも、情報・データの1つとして整理してしまっており、気持ちや行動には損得勘定のフィルターがどうしてもかかる。
まさに、「平和を貪り」「豊かさを失った」という状態が、今の私だろうと感じた。
そしてそれは、私が特殊な例ではないだろうとも思う。今の20代・30代はどうか…。30年後、50年後にはどのようなモラルが一般化しているかを想像すると、イイ気分にはならない。
「北斗の拳」では、暴力的な世界を村人たちが助け合って生きているけれども、それさえ楽観的な想像であり、そんなcommunityは生まれない気がする。
[元記事]
宗教指導者が集結・対話 法王や天台座主ら平和呼びかけ:朝日新聞デジタル [2016/09/21]