F1レースに関する小話のうち、私なりに興味深かったものをまとめてみました。

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** レーサーの死

 1950年から続くF1GP、その間に惨事は多い。
 F1の予選・決勝中に亡くなったドライバーを挙げてみよう。「死者の羅列は不謹慎である。」かとも思いますが、そこを敢えて…。

|54年|O・マリモン(マセラッティ)|第6戦ドイツGP/ニュルブルクリンク|
|58年|L・ムッソ(フェラーリ)|第5戦フランスGP/ランス|
|    |P・コリンズ(フェラーリ)|第7戦ドイツGP/ニュルブルクリンク|
|    |S・L・エバンス(ヴァンウォール)|第10戦モロッコGP/カサブランカ|
|60年|C・ブリストー(クーパー)|第4戦ベルギーGP/スパ|
|    |A・ステイシー(ロータス)|第4戦ベルギーGP/スパ|
|61年|W・フォン・トリップス(フェラーリ)|第7戦イタリアGP/モンツァ|
|64年|C・G・デ・ボーフォール(ポルシェ)|第6戦ドイツGP/ニュルブルクリンク|
|66年|J・テイラー(ブラバム)|第6戦ドイツGP/ニュルブルクリンク|
|67年|L・バンディーニ(フェラーリ)|第2戦モナコGP/モンテカルロ|
|68年|J・シュレッサー(ホンダ)|第6戦フランスGP/ルーアン|
|70年|P・カレッジ(デ・トマソ)|第5戦オランダGP/ザンドボールト|
|    |J・リント(ロータス)|第10戦イタリアGP/モンツァ|
|73年|R・ウイリアムソン(マーチ)|第10戦オランダGP/ザンドボールト|
|    |F・セベール(ティレル)|第15戦アメリカGP/ワトキンス・グレン|
|74年|H・ケーニッヒ(サーティース)|第15戦アメリカGP/ワトキンス・グレン|
|75年|M・ドナヒュー(マーチ・ペンスケ)|第12戦オーストリアGP/オステルライヒリンク|
|77年|T・プライス(シャドウ)|第3戦南アメリカGP/キャラミ|
|78年|R・ピーターソン(ロータス)|第14戦イタリアGP/モンツァ|
|82年|G・ビルヌーブ(フェラーリ)|第5戦ベルギーGP/ゾルダー|
|    |R・パレッティ(オゼッラ)|第8戦カナダGP/モントリオール|
|94年|R・ラッツェンバーガー(シムテック)|第4戦サンマリノGP/イモラ|
|    |A・セナ(ウィリアムズ)|第4戦サンマリノGP/イモラ|

 他にもF2レースやテスト中の事故で他界したF1ドライバー達がいる。
 また、観客やオフィシャルに死者が出たこともあった。

|50年|観客に死傷者|ノンタイトル戦/ジュネーブ|
|53年|観客9人死亡|第1戦アルゼンチンGP/ブエノスアイレス|
|60年|観客2人死亡|第3戦オランダGP/サンドボールト|
|61年|観客15人死亡|第7戦イタリアGP/モンツァ|
|62年|オフィシャル1人死亡|第2戦モナコGP/モンテカルロ|
|75年|観客5人死亡|第4戦スペインGP/モンチュイッヒ|
|77年|オフィシャル1人死亡|第3戦南アフリカGP/キャラミ|
|    |観客2人死亡|第17戦日本GP/富士|
|81年|メカニック1人死亡|第5戦ベルギーGP/ゾルダー|

 F1GPでの出来事ではないが、メルセデス・ベンツがモータースポーツから完全撤退したことの直接的原因になったのは、1955年のル・マン大惨事である。グランドスタンド観客席に飛び込んだメルセデスは、実に80人以上の犠牲者を出した。この事故は現在でも最大のモータースポーツ惨事として、人々の胸に深い傷を残している。メルセデスはこれ以降89年まで、34年間もの間モータースポーツへの参加をすべてとりやめたのである。また、1957年のミッレ・ミリアでも、観客が11人巻き込まれる事故が起きている。このアクシデントは、ミッレ・ミリアの歴史に終止符を打つまでの事件に発展したのである。

 モータースポーツはその速さを競うという性格上、事故が絶えない。関係者は、過去にこれだけの犠牲者がいることをよく知っている。それでも、限界に挑むドライバーたち、それを支えるメカニックや、誇りを持ってF1に携わる人々は決してこの世界を離れようとはしない。F1は人を魅きつけてやまないのである。


** 最年少F1ドライバー

 1980年カナダGPで、ニュージーランドの新鋭マイク・サックエルがデビュー、史上最年少F1GP出走記録保持者となった。彼はなんと、19歳と182日だった。 ティレルチームのスペアカーを駆り、予選出走28台中24位(予選を最下位で通過)でクオリファイされた。しかし、決勝レースはスタート直後に多重事故が発生して赤旗やり直し。チームメイトの二人(ジャン・ピエール・ジャリエとディディエ・ピローニ)がともにマシンを大破させてしまったため、サックエルは自分の無傷のマシンを先輩に渡し、再スタートのときにはグリッド上にいなかった。それでも記録上、最初のスタートで数十メートル走ったことによりサックエルの“出走”は認められることになる。

 その後、大いに将来を展望されながらもF1レギュラーの座はつかめず、F2レースで瀕死の重傷を負ったり、84年ヨーロッパF2チャンピオンになったり、日本のF2レースで優勝したりした後、惜しまれつつ26歳でレーシングドライバーから引退した。独特の人生観を持つ男だったが、レーサーとしては天才の一人であろう。

 サックエル以外に弱冠19歳でF1GPデビューを果たしたものは二人(リカルド・ロドリゲス、クリス・エイモン)いるが、いずれもF1ドライバーとしては非常に不運な人生だった。


** 女性F1ドライバー

 44年間のF1の歴史のなかで、女性のF1ドライバーは5人いた。そのうち決勝レースまで進出したのは二人。

 一人目は58年ベルギーGPでデビューしたイタリアのマリア・テレーザ・デ・フィリップス嬢、29歳。恋人のルイジ・ムッソと一緒にレースでステップアップし、F1に出るまではスポーツカーレースで活躍していた。この年、マセラティに乗ってF1では3戦し、最高10位。しかし皮肉にも、そのベルギーグランプリの3週間後に行われたフランスGPで、このときすでにフェラーリ・ワークスドライバーに出世していた元恋人ムッソは事故死してしまう。この時期トップドライバーの事故死が多発したこともあって、デ・ティリップスは59年に引退を決意する。

 二人目は75~76年にマーチを駆って12回決勝出走を果たしたイタリアのレッラ・ロンバルディだ。他車の事故のため大幅短縮となった75年スペインGPではなんと6位入賞を果たし、0.5点を得た。 他にも、70年代後半から80年代初頭にかけて、オリンピック・スキーヤーから4輪レースに転向したイギリスのディヴィナ・ガリカ、非選手権F1レースでは優勝したこともある南アフリカのデジレ・ウィルソンといった女性がF1グランプリを目指したが、予選通過はならなかった。

 92年の開幕戦南アフリカGPにブラバムからデビューしたのは、イタリアのジョバンナ・アマーティ、30歳。彼女も予選最下位を繰り返し、3戦してF1シートをデイモン・ヒルに譲った。


** これがほんとの灼熱サバイバルレース

 近年のF1GPはレース距離約300km、時間にして2時間以内と規則で決められているが、昔はもっと長く、苛酷なものだった。
 そのため、レース中にドライバー交替が可能だった。入賞すれば、得点はその人数で等分されることになっていたのだ。1957年まではそうだった。

 55年1月16日開催のアルゼンチンGPでのこと。南半球ではこの時期は真夏だし、この日は特に暑かった。レース距離は375km、時間にして3時間の長丁場。おまけに当時のF1マシンは全部ハマキ形。フロントエンジン車だから、ドライバーはエンジンの熱をモロに受ける。

 決勝出走は21台だったが、炎天下での激闘が進むうちに、次々に脱落していった。マシンより、人間が先に参ってしまうのだ。判断力が鈍ってスピンする者、日射病にかかり意識朦朧となるもの、……。あのスターリング・モスでさえも疲れ切って意識が遠のくを感じ、コース脇にマシンを止めた。救急車にかつぎ込まれたときにふと我に返り、慌ててレースに復帰した。燃料補給のピットインのときが来ると、ほとんどのドライバーは交代を要求した。すでにリタイアしていたもの、体調が回復したものが、疲労したチームメイトに代わってコクピットに就くと、コースに戻っていく。

 結局、完走はわずか7台。2~4位はいずれも3人交替。4人交替で走ってリタイアというところもあった。


** 飛び出しには気をつけよう!

 空を飛んでいた小鳥が原因で、事故になったことがある。
 名手ジム・クラークは66年フランスGPの予選、フライングラッブ中に、彼のロータスと小鳥の進路が交差した。小鳥はクラークの顔面に当たり、負傷したクラークは決勝出走を断念する事態になった。
 クラークの場合は軽傷で済んだが、彼がF1GPにデビューしたてだった60年ベルギーGPでは、そのチームメイトだったアラン・ステイシーが、220km/hで走行中に、やはり飛んでいる鳥を顔面に受け、コントロールを乱してコースを飛び出し、クラッシュ、死亡に至った。
 そういえば、77年南アフリカGPでは、シャドウのドライバーだったトム・プライスが走行中に、コースを横断しようとしたマーシャルの持っていた消火器を顔面に受け、プライスは即死した。

 弾丸のように疾走しているF1マシンやドライバーが物に衝突するのは、つまり300km/h近いスピードで物が向かってくるのと同じである。その運動エネルギーは、それがたとえ1枚の木の葉であっても、プラスチックやガラスの板を割ってしまうことがあるのだ。

 動物が難にあった最近の例としては、90年、雨のカナダGP前半戦、アレッサンドロ・ナニーニはコースに迷い出たウッドチャック君(カナダ産マーモット)を轢き殺してしまった。ベネトンはタイヤのパンクとウイング破損で余計なピットインを強いられただけだった。しかし、ナニーニがその4ヵ月後、右腕切断という大事故にあったのは、あのときの祟りだったのでは(!?)。
 87年オーストリアGP予選では、マクラーレン・TAGに乗ったステファン・ヨハンソンがコースに飛び出た鹿をはね殺すというハプニングがあった。回避を試みたが、高速エステルライヒリンクでの急制動で自らもガードレールに激突してしまった。
 鈴鹿でも、予選走行中のコース上に、きじが出てきたことがあったし、91年アメリカGPの予備予選中にはなんと、コースに侵入して自殺を図った男までいた。

 それにしても、突然何が飛び出してくるか、わからないものだ。

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