Last-modified: 2003-12-01 (月) 16:15:22 (7449d)

徳川 家康

1995/11/23

 1542年、三河の岡崎城主・松平広忠の子として生まれた。幼名・竹千代。信長より八歳年下にあたる。

 祖父・清康の代からの三河松平家も、広忠の頃は、東を今川義元、西を織田信秀に挾まれた弱小国だった。竹千代は、五歳にして今川への人質に差し出されることになったのだが、送られる途中で織田方に誘拐され、信秀の人質にされてしまう。ここで竹千代は、尾張の大うつけ信長と運命の出会いをしたのだった。二年間の人質生活の間、信長はなにかと竹千代の面倒を見てやった。

 父・広忠の死後、今度は今川方の人質となる。竹千代は、駿河の今川義元のもとで成人し、その名から一字とって、松平元康と名を改め、今川方の武将として十一年の人質生活を送る。

 そして、桶狭間の戦における、義元の思いがけない死によって、元康はようやく自立への機会を得た。義元死すの報が伝わると、前線にいた元康はすぐに岡崎城に引き返し、譜代の家臣とともに、一向一揆や混乱する三河の諸将を攻撃、併合した。桶狭間の戦から二年後には信長との同盟が成立。やがて三河を統一した元康は、名を徳川家康と改め、家康の長男・信康と信長の長女・徳姫との間に政略結婚も成立し、織田・徳川の同盟は揺るぎないものとなった。

 以来、家康は信長にとって最も信頼できる盟友として、信長軍団とともに戦場を駆けまわった。金ヶ崎の戦では木下藤吉郎と共に殿軍をつとめて、信長を無事に退却させ、姉川の戦では不利だった織田軍を勝利に導き、三方ヶ原の戦では武田騎馬軍団に戦いを挑んで信長への義理を果たすなど、各地で武名を轟かせた。そしてその結果、信長は覇者となったのである。当時、天下の嫌われ者であった信長にとって、盟友・家康はまさにその右腕ともいえる存在だった。

 しかし、騒動もあった。1579年、家康は妻・築山殿と長男・信康を殺害している。築山殿と武田勝頼の密約を知った信康夫人・五徳が実父・信長に訴えたからとか、十八しか自分と歳の離れていない信康を家康が恐れたからとかいわれるが、事の真相、特に家康の胸中は不明だ。ちなみに、後に二代将軍となる秀忠が生まれたのは、信康が自害する五ヵ月前である。

 そして1582年、宿敵武田家もすでに滅び、家康は堺でのんびりしていたところに、本能寺の変が起こった。事件を最初に知った本多忠勝が家康に報告したとき、家康は信長の後を追い、切腹しようとしたが、忠勝ら家臣がそれを止めたといわれる。どこもかしこも敵という家康最大のピンチを救ったのは、服部半蔵を頭領とする伊賀忍者達だった。

 1584年、羽柴秀吉の台頭をみて、信長の次男・信雄とともに争ったが、小牧・長久手の戦でも決着がつかず、結局、家康は秀吉と和睦した。1586年、秀吉が母親・大政所を人質としてまで、家康に上洛を求め、満座の中で拝礼させたのは有名な話である。島津家、後北条家、伊達家を従え、天下人となった豊臣秀吉の政権下で、前田利家、上杉景勝、宇喜多秀家、毛利輝元とともに五大老に任ぜられ、関東八州を与えられた。

 1598年に秀吉が亡くなり、その翌年に前田利家が病死すると、家康は即座に覇業に乗り出した。そして、1600年、関ケ原の戦において、石田三成を総大将とする西軍に打ち勝ち、家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。豊臣秀吉の子・秀頼は大阪城主という一大名に転落し、家康の孫・千姫を妻に迎えて右大臣になった。ちなみに、秀吉の子飼いの武将であった加藤清正や、黒田官兵衛の子・黒田長政、そして秀吉の正妻・北政所(おね)なども、関ケ原の戦の際、すでに東軍についていたのである。

 その後、将軍職を豊臣秀頼ではなく、息子・秀忠に継がせたことによって、掟殿を筆頭に豊臣家家臣との対立が表面化し、有名な方広寺の「大仏鐘名いちゃもんつけ事件」によって豊臣家を討つ大義名分を得て、1615年、二度にわたる大阪の陣が勃発。徳川軍はこの戦に勝ち、豊臣秀頼は母・掟殿とともに大阪城で自害、秀吉が側室との間にもうけた男子・国松をも京都六条河原で斬首し、豊臣家を滅ぼした。

 息子・秀忠に将軍職を譲った後も、家康は駿府に裏幕府を形成し、本多正純、成瀬正成、安藤直次、金地院崇伝などと謀って、幕政を影から動かした。1615年、「禁中並公家諸法度」を発布し、幕府支配を決定づけた。

 1616年、西の大名の動きに注意するように言い遺して没した。享年74歳。

 家康といえば、武田信玄に心酔していたのが有名だ。信玄の軍陣、軍法、民治などをひたすら研究して、身につけていたという。おまけに武田家滅亡の際には、遺臣を何百人と召し抱えている。そこからさらに情報を収集して、自軍の戦法を武田流に変えたりもしている。

 もう一つ、家康といえば秀吉同様、女好きで有名だ。正室・瀬名姫をはじめとして、秀吉の妹である継室の旭姫。そして正式な側室がなんと十一人もいた。特筆すべきは、そのほとんどが、一度は他の家に嫁いだ女性、つまり「後家さん」だということだ。


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